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東京高等裁判所 昭和56年(行コ)27号 判決

事件(昭和五六(行コ)第二七号)

控訴人

シャピロ・エステル・華子

右法定代理人親権者父

ヤコブ・シャピロ

同母

千葉照子

右訴訟代理人

鍛治千鶴子

永石泰子

伊東すみ子

若菜允子

被控訴人

右代表者法務大臣

坂田道太

右指定代理人

一宮和夫

村松日出男

主文

一、本件控訴を棄却する。

二、控訴費用は控訴人の負担とする。

事実

第一、当事者の求めた裁判

一、控訴の趣旨

1  原判決を取り消す。

2  控訴人が出生により日本国籍を有することを確認する。

3  訴訟費用は、第一、二審とも被控訴人の負担とする。

二、控訴の趣旨に対する答弁

主文同旨

第二、当事者の主張及び証拠

原判決事実摘示及び当審記録中書証目録記載のとおりである。

理由

一確認の利益について

ある人がある国の国籍を有することは、その人の有する諸々の権利の一である。本件において、控訴人は日本国の国籍を有することを主張し、被控訴人はこれを争つているのであるから、控訴人が自己の右権利について不安を抱くのは当然であり、控訴人に確認の利益があることは明らかである。

二請求原因について

控訴人は、自己が日本国籍を有することを主張するのであるから、他の権利を有することを主張する場合と同様に、その取得原因事実を述べなければならない。控訴人は、自己が日本国民である母から出生した、という事実を主張し、右事実を要件として、憲法前文又は国籍法二条一号の適用により日本国籍を取得した旨主張するので、以下順次検討する。

1  控訴人は、憲法前文が「日本国民は……われらとわれらの子孫のために……この憲法を確定する」とうたつていることを根拠に、憲法は日本国民を親として出生した子に対して生来的日本国籍取得権を保障しているものと主張する。しかし、憲法前文は憲法制定の由来と憲法の基本原理を述べたものであつて国民に具体的権利を保障したものではない。のみならず、右の文章のうち、「われら」とは現在の日本国民を指し、「われらの子孫」とは将来の日本国民を指すと解すべきであつて、後者が前者の血統上の子孫を指すと解することはできない。従つて、日本国民を親として出生した子が右の憲法前文によつて日本国籍を生来的に取得する権利を有するということはできない。

2(一)  次に、控訴人は、国籍法二条一号「出生の時に父が日本国民であるとき。」について、右規定は、憲法一三条、一四条一項、二四条二項に違反しているから、いわゆる合憲的解釈を行い、右規定中「父」とあるのを「父又は母」と解釈すべきであると主張する。しかしながら、右規定は憲法に違反してはいない。なんとなれば、右規定は、端的に、父が日本国民であるときその子が日本国籍を取得することを決めているに過ぎず、そのことだけを取上げてみるとき、これを禁ずる条項ないし原理は憲法のどこにも存在しないからである。もし、右の規定が、日本国民父の子は日本国民とするが、日本国民母の子は日本国民としないという趣旨の文言で規定されているのであれば、違憲の問題は起こり得よう。しかし、その場合でも、問題となるのは、後半の日本国民母の子は日本国民としないという部分だけであつて、前半の日本国民父の子は日本国民とするという部分ではないのである。

(二)  そこで、控訴人の主張を善解すると、その真意は、「父が日本国民であるとき」という規定の存在が違憲であるということにあるのではなくて、「母が日本国民であるとき」という規定の不存在が違憲であるということにあるのであろう。或いは、更に進んで、そういう規定を欠いている国籍法全体ないしは日本国籍付与制度自体が憲法の精神に反すると主張するのであろう。そして、右の制度の違憲性を是正するために、裁判所に対して右の不存在の規定が存在するものとして裁判することを求めているのである。

しかし、憲法によつて裁判所に与えられた違憲立法審査権は、存在する規定についてそれが違憲であるかどうかを審査し、違憲と判断したときにはこれを無効として、つまりいわば存在しないものとして、適用しないことを本質とする。ある規定が実定法上に存在しないとき、それがいかに憲法上望ましいものであろうとも、違憲立法審査権の名の下に、これを存在するものとして適用する権限は裁判所に与えられていないのである。

(三)  右に述べたように、本件において、裁判所は、違憲立法審査権の行使の一結果としては、日本国民母の子は日本国民とする旨の規定を創造することはできないが、本件の場合はいわゆる法の欠缺の一場合と考えることができ、その場合には、裁判所としては、条理によつて欠缺を補うことが許される場合がある。本件における控訴人の主張も、帰するところは、右の意味における法の欠缺を指摘し、憲法の諸原則を中心とする条理に従つて、控訴人主張の規定によつて右の欠缺を補うべきであるというにあるものと解される。そこで、この点について検討する。

確かに、国籍取得の基準として、血統主義を採り、かつ父又は母の一方のみの血統を受けついだことをもつて足りるという主義(かりにこれを片親血統主義と呼ぶ。その中には、父系優先主義、母系優先主義、父母両系平等主義の三つが考えられる。)を採つた場合に、その中の父系優先主義を採用することは、今日の社会的諸条件の下においては、必ずしも充分に合理的であるとは云い難い。これをもつて明らかに両性平等の原則に反するとする者が存するのも決して理由のないことではない。

そこで、もし、憲法が血統主義の中の片親血統主義を採用することを宣言しているのであれば、その前提に立つ限り、父母両系平等主義のみが両性平等の原則に合致するのであるから、国籍法二条一号が「父」と規定しているとき、これを「父又は母」と解することは、正しい類推解釈であり、法の欠缺の正しい補充であると云うべきであろう。片親血統主義と両性平等原則の双方を満足させる規定は、父母両系平等主義の「父又は母」しかあり得ず、立法者が法改正によつて法の欠缺を補おうとする場合、他に選択の余地が考えられないからである。このような場合においてのみ、裁判所は条理に基づく法の欠缺の補充を行うことができると解すべきである。

これに対して、立法者が法の欠缺の補正をするための法改正ないし新法制定をすると仮定した場合に、立法政策上複数の選択が考えられる場合には、そのいずれを選択するかは立法者に任せられるべきであり、条理の名によつて裁判所が選択決定することは許されないものというべきである。ところで、既に述べたように、憲法は国籍付与の基準として何等特定の主義を採るべきことを指示していないのである。従つて、現在の立法者が、日本国民母の子の国籍取得の有無についての規定の欠缺を補正しようとして国籍法の改正を考えるとき、右の欠缺の原因となつた片親血統主義を維持するか否かはその自由であり、維持するとすれば、控訴人主張の趣旨に沿つた法改正をする外はないが、維持しないとすれば、そのようにならないことは明らかである。

例えば、この際、思い切つて生地主義を採用することも憲法上可能であり、国家が特定地域内にのみ主権を及ぼすものであることを重視すれば生地主義にも充分に合理性があると云えよう。又、血統主義を採るとしても、むしろ純血主義に徹して両親血統主義を採り、「父及び母」がともに日本国民であることを要件とすることも考えられる。勿論、控訴人の主張する片親血統主義中の父母両系平等主義を採り、「父又は母」を要件とすることも有力な選択肢の一つである。しかし、この主義を採る場合でも、親、殊に日本国民でない親に対して一定の国内居住年数その他の要件を必要とすることも充分に検討に値しよう。

以上の諸基準はすべて憲法の諸原則に違反していない。従つて、国籍法改正に当つて、そのうちのどれを採用するかは立法府である国会の自由である。このような場合には、司法府である裁判所は、条理の名によつて、特定の基準を採用してこれを実在の法として適用することはできないものと云わなければならない。要するに、国籍付与制度自体の違憲性を論じ、合憲の国籍法を制定するのは、国会の権限でありかつ義務であつて、裁判所の権限でもなく又義務でもないのである。

3  なお、控訴人主張の事情によれば、控訴人は母の有する日本国籍を取得することができないのみならず、父の有する米国国籍をも取得することができず、結局は無国籍者とならざるを得ないことになる。誠に気の毒なことである。

しかし、このことの故をもつて国籍法二条一号ないし三号が憲法一三条及び一四条に違反するとの控訴人の主張は採用することができない。なんとなれば、控訴人が米国国籍を取得することができないのは、全く米国国籍法の規定の仕方によるものであつて、我が国の国籍法二条一号ないし三号の関知するところではないからである。他国の法規の内容如何によつて、我が国の法規が合憲になつたり違憲になつたりするなどということは有り得ないことである。

三原判決の理由は、必らずしも以上に判示した当裁判所の理由と同一ではないが、その結論において正当であるから、民訴法三八四条により本件控訴を棄却する。

なお、訴訟費用の負担につき、同法九五条八九条適用。

(田中永司 武藤春光 安部剛)

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